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  • 執筆者の写真higouti

光と影

更新日:2022年2月2日

結局、ぼくは『萌の朱雀』と、それ以前の習作ともいえる個人映画時代のものしか河瀬直美の作品を見ていない。

だから、それでああだこうだ喋るのも、寧ろ自分の愚かさを露呈させるようで、何ともいえない気分になる。


実際、いまSNS上で交わされている検証に反応する意見も、その内容を見ていくと、河瀬作品はともかく、NHKの当該番組さえも見ていない人が多いのではと思う。

NHKの番組と、まだ完成していない記録映画をごっちゃにして批判されている方も多い。

ぼくも本放送は見なかったが、その後、確認のために全編見た。


しかし正直なところ、炎上騒ぎに発展したことも含めて、それも「東京五輪2020」に対するひとびとの、ひとつの感情だったような気もするのだ。


ふと思う。

あの人はなぜ五輪の記録映画を撮りたいと思ったのだろう。


世界中から「集う」それだけで感動、「光」になる瞬間を探したい…河瀬直美・東京五輪公式記録映画監督 : 読売新聞オンライン

https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2020/20210112-OYT1T50099/


炎上を機会に彼女の記事をいろいろと読んでみたが、彼女自身が中高とバスケットに打ち込んできて、スポーツの美しさ、アスリートたちの精神が希望を伝える、それを映像で伝えたい…というくだりは純粋にそうなんだろうなと思う。

そこまでは飲み込めた。


「亡くなる間際の方に、世界に光を与えるような映画を作れという言葉をもらったことがある。人類は何度も試練に遭う。その先の光を、見ようよ一緒に、と思うのです」

しかし、たとえばぼく自身が、この言葉に手放しで賛辞を贈れるほどの人間かといえば、自信はない。


いろいろな人がいる。

光の当たらない人もいる。

どちらかというと、そこに目を向けて撮ってきた人だと思っていた。


しかし、その矛盾がずっとあった人なんだろうなと。

むしろ、その矛盾を武器に闘ってきた人なんだろう。

ど根性でよく闘ってきたなあ、と思う反面、年を重ねて上がっていくたびに得るものも大きくなったけど、なくしてしまったものも沢山あるんだろうなと。


ぼくは彼女の発言、特に「私たちが承知した」などの言葉に反応してしまい、それから同期生の島田角栄が巻き込まれる様に見ていられなくなったこともあり、炎上騒ぎに便乗して自分の意見を書くに至ったが、この数日、いろいろなことを考え、30年前の出来事を思い出していくと、いま、彼女がこうなることは、「河瀬直美史」の過程では、当然のことのような気もしてきた。


彼女は変わらない。

ぼくが知っている頃の彼女と、ものの見方、対し方、考え方、変わっていないと思う。

努力家で、ど根性の持ち主で、足りないものは遠回りでもして手に入れる行動力で補った。

いつでも「特別な人」であったし、「選ばれし者」としての自負も大いにあったと思う。


ある日(1991年初夏)、ぼくがジョン・レノン展に行ったことを少し興奮気味に彼女に聞かせたことがあった。

ジョン・レノンがハンブルグにいた頃に着ていた革ジャンが展示されていて、それが見られて最高に幸せだった、と。

すると彼女は笑いながら、私にとってはジョン・レノンの革ジャンよりも、樋口君の着ているそのシャツの方が大事。自分の目で見えて、触ることができるもの。自分の手でごはんが食べれるこのフォーク(そこはクスコという梅田の南米料理屋だった)のほうが大事やわ、と言った。

それは嘘偽りのない、今もって貫く、彼女の精神なんだと思う。


河瀬は変わったと言う人がいる。

インデペンデントの頃はよかったけど、あっち側に行った、という声も聞いた。


いや、変わらない。

何も変わっていない。

「あっち側」に行くことも含めて、何も変わっていないような気がする。

いつも持ち合わせている矛盾も変わらない。

だからときに人を傷つけ、人を突き放す。

得てきたものが大きくなりすぎたぶん、矛盾も大きくなる。


20代半ばで「全身映像作家」を目指して突っ走ってきた彼女は、もうそれになれたのだろうか。

それはこの炎上を機にしぼんだり、消えかかったり、そんなことがあるのだろうか。


なぜ、奈良の飛火野の片隅で芽吹くつぼみを撮るように、五輪開催に異を唱えるひとたちの声に耳を傾けなかったのか。

異を唱える人たちも含めて、いろいろな存在が五輪を作っている。

「光」じゃない。「影」じゃない。


目に見えないものを自分勝手に扱ってもいいものか。

もちろん、目に見えないものまで含めて見せるのが映像作家の在り方だとは思う。

でも、大きくなりすぎた分、その矛盾ではうまくいかない。

それが字幕問題にまで波及しているんじゃないか。

全身映像作家なら、大事なことを島田に任さなければならないほど矛盾を抱えては駄目だろう。


もうぼくが直接口を聞くことも出来ないくらい遠い世界の人になった。

でも、展示されたジョン・レノンの革ジャンよりも、ぼくのよれたシャツのほうが大事と言った、嘘偽りのない彼女の精神は変わらないと思う。

ぼくはぼくで、ジョン・レノンの革ジャンも大事、という生き方をしてきて今がある。

絵を描く妻と出会い、絵を描くことを始めた。

ぼくなりの生き方をしてきた。


30年前、ぼくは彼女の生徒だった。

彼女も講師としては初年度であり、「先生」というよりも、生徒たちとともに学ぶ、という仲間意識があった。

「特別な人」で、「選ばれし人」の気配はあった。

そんな河瀬直美という人にぼくも惹かれた。

親しくなり、行動を共にすることが多かった。


彼女の作品にも参加した。

『幸福モドキ』と『につつまれて』。

『につつまれて』の構想を、戎橋の欄干にもたれて聞いた。

「親父探して旅に出るよ」

その旅にぼくも同行した。

辛い旅だった。

矛盾があった。

カメラを片手に父親の足跡をたずねる彼女。を撮るぼく。

そのぼくは誰が撮ってくれるんだ?


非協力的な態度を取ってしまったと思う。

結局、途中で投げ出してしまった。

というより、愛想を尽かされた。

ぼくはまだ二十歳にもなっていなかった。

彼女の悩みや孤独に寄り添えるほどのものを、何も持ち合わせてはいなかった。


『につつまれて』は私の原点、と彼女は言う。

それなら、ぼくにとっても原点だろう。

あそこから道が分かれて、もう30年。

最後に会話したのは、『につつまれて』から2年ほど経ったとき。

彼女は、『につつまれて』が賞を獲り、大きなところで上映されることが決まったと、ぼくにうれしそうに報告した。

それをよろこんで祝福してあげる度量がぼくにはなかった。

「なにそれ、自慢?」と嫌味を口にしてしまった。


それ以降、彼女の記憶からぼくの名前は消えていったと思う。

作品にクレジットもない、「影」ですらないだろう。


ぼくはぼくで、あのときを引きずり、河瀬直美という存在を遠ざけてきた。

今回のことがなかったら、こうして思い出すこともなかった。


島田にとっては本当に、なんと言っていいか分からないが、自分の創作活動も含めて大変なことになったと思う。

あんないいやつはいない。あんな正直なやつはいない。

絶対に自分から捏造に荷担するようなやつじゃない。

「プロの反対派」というのは、彼の認識不足であり、勉強不足なだけ。

河瀬直美にもそういう部分があったと思う。

いま言われているように、彼女にイデオロギーなんかがあるかといえば、ないだろう。


ところで、ぼくはやっぱり五輪記録映画は見ない。

未来の彼女の作品も見ない。

それがぼくの原点。



補足

河瀬直美監督『玄牝』という作品について、出演(取材を受けた方というのが正しいのか)された方が書かれたブログを大変興味深く読んだ。

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