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爆弾娘の優劣と生産性

明るく陽気なベティ・ハットンは「爆弾娘」なんて呼ばれてハリウッドの人気女優であり歌手だった。
その輝かしいキャリアでも浮き沈みの激しい芸能界を渡っていくことが出来ず、1960年代にハリウッドを去ったとき、何度も死を考え、睡眠薬中毒になり、失意のどん底まで落ちた。
1970年代、ベティ・ハットンは田舎町の教会の牧師館で家政婦をしていた。 好奇心で潜り込んだ記者は、皿を洗う彼女の姿を撮影し、「家政婦をやりながら生活苦にあえぐかつてのスター」と報じた。
しかし事情は違っていた。 彼女は教会の仕事により救われ、生きる力を蘇らせていた。 教会の神父は、彼女が元女優ということも知らず、「ベティ・ハットン」という名すら知らなかったという。 ただ「無一文の薬物中毒患者」としての彼女を保護したまでである。
その後、彼女が家政婦をしていることを知った昔の仲間たちの助けによってカムバックが準備され、彼女はもう一度レッスンを受け、出なくなっていた声も、歌えなくなっていた歌も、ふたたび取り戻せた。
若い頃の「爆弾娘」の力強い歌声と、どん底まで落ちたのちの成熟したハスキーな歌声。 それは「生産性」とか、そういった優劣だけで比べることのできない次元のものだ。
「芸術」に使命なんてあるのかどうか分からない。 少なくとも、「優生」を称えた芸術は滅ぶ。 なにものにも点数はつけられない。 点数をつける者、に点数をつける者、に点数をつける者… そんなホロコーストな発想から何が生まれるのだろう。
多摩川河川敷に住むホームレスの方が捨て猫の命を救い、世話をするうちにその方自身が生きていく希望を見出していった、という話が忘れられない。 人は、救われてこそ人である。 誰も救いたくないし救われたくない、と信じている人も、その手には藁を掴んでいる。