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  • 執筆者の写真higouti

ファンシー考

更新日:2021年9月18日

ある地方の郷土玩具、干支の張り子を年度順にずらーっと並んでいるのを見たら、年々ファンシーになっているのを感じた。

昔のものは、こんなに丸っこくないし、もっと動物っぽさがある。

いつの間にか、ポケモンとの境がなくなってきている。


「ファンシー」とは、所謂「サンリオの商品」、というと分かりやすいのだろうか。


Fancy=空想、幻想、気まぐれ、装飾的な、奇抜な…。

日本では主に「女子ウケ」しそうな「カワイイ」もの、「幼稚」、「きゃぴきゃぴ」したものを指すことが多い。

ピンク色とか、パステルっぽい色とか、水玉とか…

まあそんなようなイメージである。


「ファンシー」の概念は、60年代以降の少女マンガ、それを発端とした「ファンシーグッズ」の影響が大きい。

中原淳一ではなく、内藤ルネのほうに「ファンシー」を感じる。


思えば、自分も小学生の頃はファンシーなカンペンケースを使っていたし、70年代以降に生まれた者にとっては、男子女子問わず、大なり小なりの影響は受けていると思う。

男のくせに(問題発言)、ファンシーなラッピングペーパーを集めている友人もいた。


80年代以降、「ファンシー」は若者文化とは切っても切り離せない感覚だろうし、サンリオグッズは云うに及ばず、ゆるキャラ、ファッション、サブカル、流行のおもちゃなど、消費にも大いに影響を及ぼしている。


上野動物園でパンダの赤ちゃんが産まれると、パンダグッズの売り上げは跳ね上がった。

話題になったぬいぐるみ、「ほんとのおおきさパンダの仔」は、名称も含めてファンシーの極みだと思う。


(買ってしまった…)



「ファンシー」はこけしの世界にも影響を及ぼしている。

2000年代以降、実はファンシー目線でこけしに興味を持ち、集め始める人は少なくないように思う。

そして、ファンシーを求める人が増えれば、作られるこけしも当然ファンシーになる。


玩具もまた時代のうつしかがみ。

この時代の香り。

そこに目くじらを立てる人もいれば、そこが新しいとよろこぶ人もいる。



こけしの世界でいえば、「新型こけし(おみやげこけし)」が多く作られた時代があった。

第二次大戦が終わって10年もたたないうちに、全国の観光地の土産として、伝統的な様式ではなく、自由な発想で作られた新時代のこけしである。

多くは箱根や小田原で、完全分業で作られたが、東北のこけし産地でも新型こけしの下木地を挽いたり、新型こけしそのものを作る工人もいた。


戦時中は招集なり疎開なりしていた収集家が、再びこけしを求め始めたとき、例えば、ある産地は、「新型の影響を受けすぎている」と槍玉に挙がった。

「このままではまともなこけしが残らない」。

収集家たちは危機感を露わにした。


「新型の影響」とは、瞳が大きくなっていたり、描彩が華美になったり、形態も旧型とは全く違ったものになっていたり…

一つ二つ前の世代とは、作るものがあまりにも違っていた、ということである。

ファンシー化されていたのである。


工人たちは戦争を挟んだせいか、昔のこけしを忘れていたし、若い工人は昔のこけしを知らなかった。

こけしは売り物であるから、工人の家に昔のこけしなど、当然残ってはいないのだ。

売れ行き好調の新型こけしの影響力は凄まじかったのだろう。

旧型を求める収集家にしてみれば、「イマドキ」のこけしに成り下がっており、「伝統」を忘れた「新型」で、目も当てられないかわいこちゃんに見えたのだろう。

(逆に肘折は奥地ゆえ戦後が10年遅れたと云われたほど新型の影響を受けない旧態依然のこけしが作られていた)


そこで収集家たちは「写し」「復元」という、工人との共同作業によって、逸脱し始めた伝統の軌道修正を計った。

つまり、収集家が所蔵する昔のこけしを工人に見てもらい、その通りに写してもらう。


その成果があったのか、徐々に「昔のこけし」が甦り、収集家にとってはめでたしめでたし、となった。

「伝統」は保たれ、そのコレクターズアイテムへの熱が「こけしブーム」へとつながっていく…



というのは大袈裟かも知れないが、その工人の父や祖父の作っていたものを「何何型」とし、その産地の、その工房(家)ではその型しか作らないし、勿論その型は師弟関係などない他所の工房が作ることはない、ということを明確にし、ブランド化がなされた。

こけし愛好会や熱心な収集家による各系統の研究もすすみ、工人の年代変化などの研究文献も多く出版された。

コンクールなどによって工人の旧型こけしへの取り組みも奨励され、「伝統こけし」は、他の郷土玩具とは独立した形で、東北ブランドを代表する工芸として確立されていった。


「写し」(復元)に取り組むことや、系統が明確にされること、それがみちのくの木地屋の本来あるべき姿への回帰だったかどうかは、正直なところ自分には分からない。

しかし、こけしというものを後世に残すべくして残す運動だったと思うし、そのことによって、作る側、消費する側にとっても、より深く、より土着的に、より魅力的な世界になったのだと思う。


まわりくどく書いたが、要するに、戦後のこけしもファンシー化していたし、その現象に収集家が「指導」したことによって、「伝統こけし」は、より深く、大きな世界になった、ということである。



一方で、「伝統こけし」として確立された工芸のなかで、「一般型」とか「共通型」と呼ばれるものも生まれた。

系統の要点だけ押さえておいて、平均的なこけしを作ること。

品行方正、行儀正しく、誰にでも好かれ、よく売れる勤勉なこけし、ということになろうか。

特定の師匠につかなかったり、型の継承を受けなかった工人が、「一般型」を作ることも多かった。

これを「本人型」に発展させた工人もいる。


各産地の工人は、「復元」と「一般型」の間で、実に多くのこけしを作ることになる。

実際、こけしブームの頃は、どんなこけしでも片っ端から売れた、というのはよく聴く話。

大量生産品ではないが、規格品とでもいうべき「一般型」も、挽くのに追いつかないほど売れたのだ、ブームの頃は。


この「一般型」というのが、実は、伝統こけしをつまらなくした、という意見もある。

大量に、平均的に作るには、どうしたって個性に乏しくなる。

「こけしは表情芸術」とは鹿間時夫の言葉だが、表情に乏しいこけしが数多く作られることにもなったのだと。



古い時代のこけし作りはどうだったのだろう。

二人挽きの時代から、木地屋はとにかく数を作らなければならない。

夜が明けぬうちから挽き、寝静まるまで描く。

いわば、平均的、効率的に工夫されて作られたものがこけしだった。

なかには表情乏しいものも、無個性なものもあったかも知れない。

そして、かわいらしさを重視して作られたこけしもあっただろう。


飯坂温泉佐藤栄治の古こけし(渡辺鴻、鹿間時夫旧蔵)は、収集家に渡る前は舞妓が大事していたものだったという。

それはきっと、その時代の「ファンシー」の極みだったはずだ。


詰まるところ、「時代」なのではないか。

「ファンシー」や「一般型」も、その時代時代にあったのではないか。


ポケモンやリラックマ、たれぱんだといったものにだんだん似てくる全国各地の郷土玩具も、やはりこの時代のうつしかがみである。

いつだって作り手は、現代を生きている。

その時代その時代の「ファンシー」があり、「縁起」がある。

「伝統を現代に」ということでいえば、それは自然なことであるし、むしろ昔のものを昔のとおりに作ることは不自然なことかも知れない。

「昔のようにうるさい先生方もいなくなって、自由に作りやすくなった」、という工人の声も聞いた。



それでもこけしは着物を着ている。

髪型も変わらない。

いわば、昔の人の姿を写した人形である。

ファンシーも時代と共に変化する



現在作られているこけしは、どれくらい「昔の人」を意識して作られているのだろうか。

例えば、昔の子どもの髪型を知らないで、形式だけで描いている工人も、中にはいるかも知れない。

そんなものは知らないでも描ける。

形式を写すのだから、先人の描いたとおりに描けば、こけしは作れる。

そこに作者の感覚が加味される。

いまのこけしは、いまの顔をしている。

それはごく自然なことだろう。



土湯の斎藤太治郎は、どれくらい伝承どおりのこけしを作ったのだろうか。

浅之助や弁之助といった人たちのこけしと、何が違っていたのだろうか。


太治郎は小唄勝太郎が好きだった。

小唄勝太郎は昭和初期の新民謡、流行歌の歌手。

いわばアイドルである。

太治郎は「ドルヲタ」だった。

勝太郎のレコード(握手券はなかった)を聴き、こけしの顔も勝太郎に似せて描いたという。

これを「ファンシーこけし」と呼ばずして、なんと呼ぶ。


小唄勝太郎

太治郎こけしに似ている


太治郎は勝太郎のブロマイドに「勝太郎さぁん」と呼びかけたという

小唄勝太郎は昭和6年デビューだから、明治大正頃からこけしを作ってきた太治郎は、勝太郎の面影が自分のこけしに似ていると思ったのだろう



さて、昨今のこけし、郷土玩具のファンシー化はどうなっていくのか。

ひょっとして、ファンシー群の中から名品が出てくるのか。

「旧態依然部門」、「ファンシー部門」と、作り分けが必要になってくるのだろうか。

「ファンシー」は急には止まらない。


「伝統を現代に」。

それはいつの時代も一筋縄ではいかないし、「収集家」も時代によって変わるのだ。

買う側の好みが変わるなら、作り手も「売れるもの」を模索していくしかないのではないか。



(2013年執筆記事を修正して更新)

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