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  • 執筆者の写真higouti

「民藝」「天然」「作為」



昨日バーナード・リーチ展を見て、笹島喜平の木版画を見て、陶器屋や古道具屋など回って、あらためていろいろ感じたこと、考えたことがあったし、今も考えている。


「民藝」というのは、つまるところ、「天然」への憧憬が産んだ「作為」だわなぁ(談志風)。 掘り起こしたスリップウェアと、濱田庄司が写したスリップウェア風と、それは美か、用か、天か、地か。


そうなると、山下清が、普通(何が普通かは置いといて)の人が欲しがる「裸の大将」っぽいほのぼのした絵と、清が本当に描きたかった絵と、その差はなんだろう。


式場隆三郎展の図録(実は展示を見ていない)に、山下清の最初期の絵、毛虫の素描があった。 あれは写生かどうか分からないが(式場曰く清の写生画はよくない)、なんだか凄い絵だ。 清が本当に描きたいと思って描いたなら、それが清の「天然」だろう。


式場隆三郎が思い入れた「二笑亭」を思う。 ある人が建てた私邸。 これがまあ、なんだか訳がわからない凄い家で。 残された写真や、木村荘八の二笑亭の素描を眺めていると、ちょっと精神的にくる。 誰かに見せようと思って建てたものではなく、自分が住むための家である。 最初のうちは家族で住んだが、家族はその家を嫌って別居し、主人ひとりで住んだそうで、最終的に主人は「脳病院」に入院、退院することなく死去したとある。


たとえば、横溝正史には二笑亭が理解出来ただろうか。 夢野久作が家を建てたら、二笑亭のような家になっただろうか。 そんなことはなかつたでせうね。


式場隆三郎は二笑亭を買い取り、移築し、美術館にしたかったそうだ。 その夢叶わず、昭和10年代に二笑亭は取り壊されたという。 式場隆三郎という人は、こと「天然」に関しては恐ろしい人だと思う。


「天然」か、「作為」か。 あらゆるものづくりにかかわってくる事柄ではないか。 自分は「作為」を「作為」しようとするあまり、絵にもならない愚かしさ、な毎日なんだけども。 結局どうにもならないし、その点、悩んでもいない。


しかし、丸木スマや大道あやの絵を眺めていると、そんなことどうでもよくなることも確かである。 清の絵はもちろんのこと。 要はハートなんじゃないかと。

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