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  • 執筆者の写真higouti

城と牢獄



澁澤龍彦は、城と牢獄は互いに裏返しの関係であると書いた。 城は頑丈な牢獄であり、牢獄は囚人にとっての城なのだと。

ルイ王朝期、実際に城は牢獄だった。 バスティーユは初期は要塞であり、のちに監獄となった。ヴァンセンヌ城もそうである。

マルキ・ド・サドは6年間をヴァンセンヌ牢獄で過ごし、のちバスティーユに5年収監された。 そして著作のほとんどを獄中で書いた。


「獄中のサド侯爵は、仕事の邪魔をされたくなかったので、独房の扉がぴったり閉まっているかどうかを確かめに行った。 扉は外部から二重の閂(かんぬき)で閉ざされていた。 侯爵はさらに内部から、典獄の好意で取りつけてもらった掛金を下ろすと、さて安心して机の前にもどってきて坐り、ふたたび筆をとり出した。」 (ジャン・フェリーの文章より)


澁澤龍彦はサド文学を表現する上で、このジャン・フェリーの一文を重要視し、牢獄こそはサドにとっての夢想の場であり、城であったと強調した。


ぼくが澁澤龍彦のサド侯爵関連文のなかで好きなのは、『ラコスト訪問記』だ。 これは堅苦しい研究文ではなく、掌編の紀行文で難しくない。(他は自分には難しい)

サドの居城だったラコスト城は、南仏プロヴァンスのラコスト村にある。 澁澤龍彦にとって、欧州旅行ではラコスト城こそいちばん行きたかった場所だったと思う。

澁澤よりも前には遠藤周作が訪れていた。 しかしそれは真冬のことで、雪に閉ざされた丘の上のラコスト城を見上げるほかは、狐狸庵先生にもなすすべがなかったという。

澁澤龍彦が訪れたのは六月初旬だった。 六月の南仏はどんなだろうか。

廃墟の城に着いた澁澤龍彦は、朽ちてゆく城壁に沿って歩き、感慨を深くした。

やがてサド家の庭園だった丘の上の原っぱに出た。 一面、赤い野の花が咲いていた。

澁澤は夢中で花を摘んだという。 「サドの霊が花に化身しているような気がしたのである。」


ラコスト城を立ち去るとき、車の窓から振り返っては、見えなくなるまで城影を眺めた…

ぼくはそういう澁澤龍彦が好きだ。 摘んだ花はドライフラワーにして、いつまでも澁澤の書斎に置かれたという。


コロナ禍という監獄に閉じ込められている。 閉じ込められているときこそ、そこを城と夢想し、その悶悶を創作にぶつけてみたいと思うのだけど… サドや澁澤と違って、ただの人間に生まれたので、悶悶は悶悶としたまま…


ちなみにラコスト城は、近年ピエール・カルダンが買い取り、自らの別荘として使用していた。 劇場やデザイン学校も併設しているという。 そのカルダンも去年亡くなった。

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