「生きて虜囚の辱めを受けず」で有名な「戦陣訓」は、1941年陸軍大臣東條英機が示達した訓令。 1882年の「軍人勅諭」とは異なる、あくまで陸軍の訓令。
この「戦陣訓」の校閲に島崎藤村が参加していた。
「文章のブラッシュアップを藤村先生は快諾してくださった。藤村ファンならすぐにもそれとわかる藤村調が戦陣訓の節々を占めるようになったのである」 (陸軍教育総監本部長・今村均)
藤村が手直しした「戦陣訓」には美文調のリズムがあり、自己陶酔させる魅力があったという。 (藤村だけではなく和辻哲郎、佐藤惣之助、土井晩翠なども参加)
太平洋戦争末期、「生きて虜囚の辱めを受けず」はひとり歩きした。 悪く言えば「悪用」された。 「天皇陛下のお言葉」として、「捕虜ニナルクライナラ自決セヨ」という「命令」になってしまった。 それが誤読であれなんであれ、投降の呼びかけに応えず、「ハラキリ」の道しか与えなかったのは、「戦陣訓」という美徳がそうさせた、というのは言い過ぎか。
東條英機はいわゆる「精神論」の人だった。 そればかりではないかも知れないが、あまりにもそれを謳いすぎた。 最後は国民一人一人が義勇隊となり、予備の旧式銃でも、家に伝わる刀、弓矢でも、竹槍、果ては出刃包丁であろうとも武器として手に取り、本土決戦の際は米英を背後から討てと訓示した。
島崎藤村の人生は困難の連続だった。 その困難が美しい言葉を生んだ。 昭和18年に亡くなったが、戦後を生き延びていたら、どんなことを思っただろう。
あゝ、自分のやうなものでも どうかして生きたい
(春・島崎藤村)
これこそ「戦陣訓」に代わるにふさわしい言葉のように思える。
高村光太郎は戦争賛美詩を書いた反省の日々を花巻で過ごした。 特攻隊を「最も崇高な道徳精神」と書いた横光利一は弱り切って亡くなった。 三好達治にも、斎藤茂吉にも、「戦争協力文学者」のレッテル貼りは容赦なかった。
まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり (初恋・島崎藤村)
詩は美しい。 言葉は人を動かす。 芸術は知らしめる。 しかし、先の尖りすぎた言葉には、やはり刺されると血が出る。
それを評する前に微笑みを湛えよ。 共に歌える唇を持て。
コメント