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藤戸竹喜展



東京ステーションギャラリー『藤戸竹喜展』を見た。

藤戸竹喜さんは旭川近文で生まれ、阿寒湖で木彫師として活躍された方で、2018年に84歳で亡くなられた。

展覧会を見たのは2週間ほど前になるが、反芻しながら栄養をいただけているような気がする。


二体の熊の像があった。 ほぼ等身大とのこと。 ぼくは時間をかけて眺めた。 特に二本の足で立った熊の像を、あらゆる角度から眺めていた。 見事だった。 (その熊のアクリルキーホルダーを買ってしまった)


人間は基本、野生の中に身を置かないで生きている。 ナチュラリストと呼ばれる方がどういう生活をされているのか分からないけれど、人間が自然のただなかで生きていくのなら、銃を持って生きるほかはない。 そうして、狩りをすることで優位に立ち、生き延びるしかないだろう。 ということは、やはり自然のなかでは生きていないのである。


石器を作り、道具を作り、穴を掘り、罠を作り、農耕を知り、人間は自然から離れていった。 そうして、いつからか「万物の霊長」を名乗るようになった。


「善と悪」を定義する人間の文明から見ると、熊は「悪」である。 熊には人間を殺める力がある。 人間は武器を持たずして、熊とは渡り合えない。 ときに人間の領地を荒らし、悪さばかりする熊は、文明には必要ない動物にされる。


しかし、自然のただなかで生きる熊には「善悪」はない。 突き詰めていえば、ただ、食うために生きる。 子孫を残すために生きている。 そして、それが自然を作っている。


いわば、人間から見て「悪」のいとなみは、地球の生態系を作っている。 森を作り、壊れたものを回復させる。 人間は、自然の片隅で生かされているに過ぎない。 生態系を作ることも、修復することもできない。


かつてアイヌは知っていた。 人間は「万物の霊長」ではないことを。 自然のただなかで、人間として生きる術を。 自然との対話の方法を。


藤戸竹喜さんがデッサンやスケッチをすることなく、下書きもせず木を彫っていくとき、かつてのアイヌの生き方でもって、木の中からかたちを探り出していたはずだ。


人間にとって、熊は必要なのである。 善や悪を越えて、自然のひとつであることを考えたとき、熊も、人間も、帰るべきところ、進むべき道というものが見えてくるはずである。 藤戸竹喜さんは、それを彫り続けたのだと思う。


藤戸さんの進むべき道には、いなくなってしまったオオカミがいた。 そして、生きとし生けるものとしての熊と人間を彫り続けた。 そこに境はない。


倒された木は藤戸さんに語る。 「我れを彫りて人間を戦慄せしめよ」 それは静かな、低い声だ。