高円寺庚申通り商店街の吉野純粋蜂蜜店の建物は一風変わっている。 前衛的である。
吉野さんのお父上が、ある建築家と懇意になり、狭小地ではあるけれど、ひとつおまかせするから、と依頼した結果だという。
鉄材とガラス、コンクリートで出来た、縦長の箱、といった感じがする。 用途や居住性を優先するよりも、建築家の「作品」としての性格が現れた建物だといえる。 出来上がってみると、前衛建築ゆえの不便さ、欠陥もあると聞いた。
そんな前衛建築オーナーである吉野さんなら分かってくれるかも知れないと、ぼくも知ったばかりの二笑亭のことを話した。 すると、持ち前の職人気質もあってか(ギャラリーの内装工事など、吉野さんお一人で大工もされる)、摩訶不思議な二笑亭建築について興味津々。
そして、ギャラリーオーナーとして、多くのアーティストと接してきた吉野さんだからか、二笑亭の脇目もふらぬ美の追求にも興味を示してくれた。
そんなわけで、ぼくは在廊する日に『二笑亭綺譚』を持参して、吉野さんと半日、二笑亭について語り合った。
「誰の心にも存する傾向の強化であり、常人の心に潜む意欲の勇敢な表現」
この式場隆三郎の言葉には、吉野さんも共鳴されたに違いない。
若い頃、アート、表現の世界に首を突っ込んだ頃、批評の言葉のなかに「自己満足は悪」といった認識に触れると、一種しらけた感情が湧き起こったものだった。 「マスターベーション」という言葉で批評を受けることもあったかも知れない。
吉野さんは、そこを強調された。 自己満足がいいんだと。 過去にギャラリーを利用してくれたアーティストのなかに、空間を自己満足で埋め尽くすような人もいたけれど、それはやはり他を圧倒するし、印象に残ると。
いまは?多少違うかも知れない。 自己満足はあまり批判されない時代になってきたのかも知れない。 それでも、他人の目を意識した作品づくりしかあり得ないなか、二笑亭を考えるということは、潜在意識のなかで生きて、ある程度構築させていくことの大事さを教えてくれるような気がする。
自分のなかのナイーブを守るということ。
「芸術制作には誰にでも何等かの形で大なり小なり二笑亭気分はなければならないと思ふ。 それは仕事に対する愛着、集中、熱心、無思忘我などだ。 これが撃つのである。」 (木村荘八)
売れる、売れない、で判断する世間。 上手、下手、で判断する常人。 優れている、劣っている、で判断する民衆。 それは理路整然としているようで、実は迷路である。
ちくま文庫版『定本二笑亭綺譚』のなかで、藤森照信さんは利休の名を挙げた。
「利休居士のこういった感覚は、現在いわゆる「侘」「寂」によって納得させられているが、当時我々常人がその現場にいたとしたら、二笑亭に覚えたと同じようなある種の違和感を覚えたに違いない。 利休の、いわばルール無用の美意識について、後続の茶人たちはなんとか秩序を立てることに頭を痛めたのだろうと思う。この感覚を野放しにすれば、茶の湯の世界は内側から崩れてしまう。そこで編み出されたのが、先哲の結果のみを範とせよ、という苦しまぎれの秩序原則であった。創造は一代限り。」
つまり二笑亭は、先哲の結果(しきたりとしての茶道)ではなく、原因(利休の美意識)のほうにこだわっていったのではないかと。
成る程。 これはいろいろなことに当てはめて捉えることができる。
ぼくらは四六時中、この目で何かを見ている。 何かに(まあ秩序に)当てはめて見ることほど、つまらないものもないわけだ。 何かをやろうとするならば。
マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』ではないけれど、「もし地上に美徳しか棲まなかったら、すべては破壊されるだろう」。
我が二笑亭。 グーグルマップで見ると、門前仲町の二笑亭跡地は工事中だ。 右隣に「コージーコーナー」、左隣は「から好し」。 その真ん中、昔二笑亭ありき。 すべては破壊されたわけだ。
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