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トルストイ、徳冨蘆花、関寛斎

更新日:2021年12月19日

トルストイの『イワンのばか』から『カフカースのとりこ』を読んだらすっかり魅了された。

とっくに頓挫した『戦争と平和』と『アンナ・カレーニナ』は映画で勘弁してくれ。


トルストイに会った日本人はいたのかどうか調べたら、1906年(明治39年)6月、徳冨蘆花が会いに行っていた。

トルストイは俗世を離れ、生まれ育ったヤースナヤ・ポリャーナで半農生活を送っていた。


 池を周りてやや下れるところ樺の木の陰に青塗の狭き板の腰掛あり。

 余はしばし憩こわむと、コルクのヘルメット帽を枕に、インヴァアネスうち被りて仰向けになり、うとうとといつしか夢心地になりぬ。

 やや久しくして人の近寄る気はいあり。

 つとめて重き瞼を開けば、一人の老翁わが側に立てり。

 庭園の掃除に来し百姓ムウジク爺かと思いしは一瞬、まがうべくもあらぬ翁の顔に、はね起きるより早く「おお、君はトキトミ君」と翁は歯ぬけて子供のごとく可愛ゆき口もとに笑みを崩して手を差伸べ、余は「ああ、あなたは先生」とひしと握りしその手は大にして温かなりき。

(徳冨蘆花『巡礼紀行』より)


すっかりトルストイに魅了された徳冨蘆花は、帰国後文壇から距離を置き、北多摩郡千歳村粕谷で半農生活を送る。(蘆花の旧居跡は蘆花恒春園として開放されている)


その粕谷での生活を綴った『みみずのたはこと』を読んだ。

そのなかに、ある日「関寛斎」という北海道で牛飼いをしているという質素な格好の可愛い目をした髭の老人がアポなしで訪ねてくる章があった。

この章、素晴らしく、感銘を受けてしまった。


関寛斎という人を知らなかった。

幕末の蘭方医師だった関寛斎は、七十歳を過ぎて思うところあり、地位も名誉も捨て、明治35年、北海道陸別へ渡り開拓生活に入った。

全財産を捧げて開墾した原野に牧場をひらく。

徳冨蘆花も陸別の関牧場を訪れ、あのヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ねた日々のように、関翁と過ごした。

医師でもある関翁は、周辺住民の診療も行い、アイヌからも慕われ、貧しいアイヌの患者から金も取らずに治療する様子も描かれている。


この関寛斎こそは日本のトルストイだったかも知れない。

トルストイは最晩年、妻、家族の心情、生活態度を相容れず(財産を受け継ぎたい家族と全著作権を放棄したいトルストイとの間で意見が衝突)、家出をした。

そして旅の途中の駅で死んだ。


関寛斎もまた自分が開墾した土地を開放し、自作農創設を志すも、やはりトルストイと同じように家族との意見の対立に悩んだ。


大正元年、関寛斎は82歳で自ら命を絶った。

報せを受けた徳冨蘆花は悲しんだ。


“1906年6月30日、徳冨"蘆花"健次郎はヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ねた”