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  • higouti

ものの見方


ぼくが銀行から出ようとしたとき、50代とおぼしき男性が入ってきた。

男性はぼくに向かってどんどん歩いてきた。

ぼくのほうがよけろということなんだなと思い、銀行を出るぼくのほうが道を開けるかたちになった。


こういうことは多い。

エレベーターでも、ぼくが降りるよりも早く乗ってきて、もう行き先のボタンを押そうとしている人もいる。


メジャーで活躍する筒香選手が、日本とアメリカの違いを語っている記事を読んだ。

メジャーリーガーたちの対戦相手へのリスペクトのあり方や審判への姿勢に日本との違いを感じたという。

「本当に相手へのリスペクトが強い国だと感じています。アメリカの選手たちは自分の意見をはっきり言う。同時に周りに気遣いをするというか、本当に心から困っている人に手を差し伸べるという風習がすごく強いと感じます」


ハワイのホテルでエレベーターに乗ると、居合わせたアメリカ人男性は例外なくお先にどうぞと譲ってくれたことを思い出す。

どの方もスマートでさりげなかった。

そういう部分、敵わねえ、と思った。

ぼくも譲るほうに回ってみた。

すると、どの方もちゃんと言葉で礼を述べてくれた。


子どもの頃、電車でもエレベーターでも玄関でも「出る人降りる人が先」と親からも叱られたし、何人かの大人からもたしなめられた覚えがある。

そうしたことのいくつかは、この年になってもふとした瞬間、ああそうだそうだと思い出す。



流れてきたタイムラインに「ポリタスTV」というYouTubeチャンネルが目に止まり、例の「NHK字幕問題」について語るというので見てみた。


ある人が、字幕問題の何がそんなに問題なのか今ひとつ分からないというスタンスで、「率直に言ってみんなテレビ好きだなあという感想を持った」という。

「あんな字幕が出たくらいで世の中で起こっているデモ全てが駄目になるわけではないだろう」と。


そして、「あれだけ大量に人がいればお金もらって来てる人がいてもおかしくない」

「バイトの分金出すからバイト休んでデモに来てって頼まれたってのも考えられる。本人はデモには関心なくても」、と続けた。


動員があるデモの例として、

「よく国会図書館に行くんだけど、丁度デモを盛んにやってるときに出くわしたことがあって、マスコミも来ててSEALDsとか撮ってるんだけど、その隅では明らかに動員されて来たんだろうなっていう人たちがいて、年配の人が旗とかのぼりとか持ってるからすぐ分かるんだけど、年寄りだからもう疲れて沿道に座り込んじゃってる。そういう光景を見ると金銭で動員っていうのも考えられるんじゃないかと思う」

と、そんなことを話していた。


しかしその動員の話も、なんのウラも取っていない推測なわけだ。

なんだかもう放送倫理とかマスコミとか映画とか、いろいろ駄目かもね、と思ってしまった。


そりゃいろいろな見方がある。

同じ光景を目にして、全く異なる感想を持つ人もいると思う。


個人的な体験として、ぼくも国会図書館からの帰り、デモが起こっている中を地下鉄の駅まで歩いたことがあり、印象に残る出来事があった。

ちょっと立ち止まって様子を眺めていたときだった。

デモに参加している方数名の立ち話が耳に入ってきた。

「だから子供がいないやつが総理大臣なんかやっちゃ駄目なんだよ」

ぼくは途端にしらけたというか、興味が失せたというか、その場を離れ、地下鉄の駅まではみだされるように歩いた。


だけど、それはそれで正論かも知れないのだ、教育問題や児童の問題を抱えている人にとっては。

立場、環境、世代、性別…

ものの見方は本当にそれぞれだ。


字幕問題についてはもう書かない、と言いつつまたまた書いてしまうわけだが、自分自身にとってのまとめというか、やはり自分にとっても大事なことだと思うのだ、特に「ものの見方」という点において。


今日、NHKで上田泰江さんという91歳の画家の番組を見た。

上田さんがカメラに向かって(カメラ片手に撮影中のディレクターに)言った。


上田さん「あなたがカメラで見ることと、わたしが目で見るのとでは、同じ花を見るのでも違うんですね」

ディレクター「私がレンズを通して見ているってことですか?私は撮ったものがすぐに映像の素材になりますが、上田さんは?」

上田さん「私は何も思わない。この花を見て綺麗だから絵にしようなんて思わない。ただうれしいんですよね、生きてるものが」


なんだかこの会話は字幕問題を考える上での、いいヒントになるような気がした。


河瀬直美監督は言った。

「亡くなる間際の方に、世界に光を与えるような映画を作れという言葉をもらったことがある。人類は何度も試練に遭う。その先の光を、見ようよ一緒に、と思うのです」


しかしぼくは、目に見えないものは、やはり見えないのだと思う。

「光」も「影」も現象にすぎないし、どこまでも抽象的だ。

「光と影」、その見方では見えないものも多くて困るのではないか。

所詮、レンズ越しのものの見方。

裸眼で見えるものと、レンズ越しの素材から見えるもの。


「光を与える」、そのレンズ越しの主観こそが、字幕問題をもはらんでいた、と、やっぱりぼくには思えて。