higouti
うしろすがたのしぐれてゆくか

桑原甲子雄の写真を眺めていて、あっ、と声をあげてしまった。
浅草松竹座の舞台、エノケン一座が写っている。
すぐに藤牧義夫を思い出した。
藤牧が所属した「新版画集団」は、エノケン一座とのコラボレーションとして、松竹座ロビーで展覧会を行った。
藤牧は版画展案内チラシをデザインし、そこにはエノケンの似顔が摺られていた。
その頃、畦地梅太郎に宛てた葉書にも、やはりエノケンの顔が摺ってある。

藤牧義夫 『ENOKEN之図』 1934
藤牧があの『隅田川絵巻』に着手したのは、丁度エノケン展覧会が開かれていた頃である。
そして、絵巻を描き終えた頃に失踪する。
この写真に、花島喜世子は写っているのだろうか。
エノケンの相手役であり、妻だった。
長谷川利行は、浅草水族館二階の余興場で旗揚げされたカジノフォーリ―の歌劇に通った。
利行は客席に絵具とキャンバスを持ち込んで、歌って踊る花島喜世子を描き上げた。
同じ客席には川端康成がいて、熱気溢れるカジノフォーリ―の様子を『浅草紅團』に書いた。

長谷川利行 『酒祭り・花島喜世子』 1930
桑原甲子雄の写真を眺めていると、客席の空気が吸えるような気がする。
舞台はこぢんまりとしているが、あたたかく、親しみに溢れている。
気取らず、お洒落で、華やかで。
これが浅草か、これがエノケンか。
エノケンの写真など珍しくもないが、観客の視線で捉えたこの一枚は、浅草の町の奥行きのようなものまで感じさせてくれる。
この客席に長谷川利行もいたのか。
利行の年譜を見ていると、生前の個展の多さに驚く。
桑原甲子雄が松竹座の写真を撮った頃、画商天城俊彦は、利行を浅草から新宿に連れて行き、軟禁状態にして絵を量産させた。
昭和12年(1937)だけで、実に18回もの個展を開いている。

天城画廊での個展
座っているのが長谷川利行
利行は描いて描いて、描きまくった。
キャンバスだけではなく、ボール紙、絨毯の切れはし、お菓子の包み紙、煙草の空き箱、マッチ箱、余白があるものなら、何にでも描いた。
町を描いた。女を描いた。友を描き、カフェーを描き、裸を描いた。
描いた絵は、片っ端から売り歩いた。
売っては飲む。
飲んでは木賃宿に帰り、泥棒の隣で眠り、起きるとまた町をさまよい、描いた。
熊谷守一の家に出向き、電車賃を借り、借財に自分の絵を置いていく。
東郷青児の家に居座り、絵を売りつける。
翌日、青児に売った絵を、加筆するから貸してくれと云い、持ち出して他人に売っぱらう。
無理矢理岸田国士の肖像を描き、本人に売りつけたこともある。
靉光の描きかけのキャンバスに加筆し、一気に靉光の顔を描き上げたこともあった。

長谷川利行 『靉光像』 1928
同時代画家の中で、利行はいちばん年を取り、いちばんみっともなかった。
「生きることは描くことに値するか」
そう云ってのけたが、そう云えたのは利行だけだったろう。

長谷川利行 『こけし』
こけし研究誌『木の花』第九号にて、小山信雄氏が長谷川利行の描いたこけしの絵について触れている。
利行の描いたこけしは、色紙に描かれた俳画のようなもので、利行の友人矢野文夫が、胃を病み油彩に取り組む気力をなくした利行に水墨画を勧めたというから、その頃のものだろう。
鳴子のこけしと思われる。
小山氏は、
「この表情が素晴らしい。もしこんなこけしが本当にあったら愛好家は夢中になるこけしであろう」
と記している。

長谷川利行 『小罌粟とは虞美人草の名なるべし』
利行はどこでこけしを見たのか。
当時、吉祥寺に「ナナン」という画廊喫茶があった。
ナナンは芸術家の溜まり場で、絵描きや詩人、小説家といった人たちが出入りしていた。
武者小路実篤もナナンで個展を開いた。
吉祥寺には深澤要が住んでいた。
昭和12年、深澤要はナナンにて、自らの収集品を並べ、こけし展を開く。
その頃、利行もナナンで数回に渡り個展を開いている。
利行が見たのは、深澤要が収集したこけしだったのだろう。
昭和12年当時、わざわざ「こけし」と平仮名で記したところに、深澤要の影響、熱を感じる。
というのは大袈裟だろうか。
(東京こけし会によって、こけしの名称を仮名書きの「こけし」に統一すべきと決議したのは昭和15年のこと)
厄介者の利行と深澤要が親しく付き合うようなことはなかったと思うが、邂逅があったとしたら、どんなやり取りがあったのか、興味は尽きない。
利行の目に、こけしはこんなにも可憐に映った。
カフェーの女給を描くように、花島喜世子を描くように、こけしを描いた。
利行は「こけし」というものを初めて見たのだろうか。

長谷川利行 『街景』 1937
絵の町の中に、しぐれてゆく後ろ姿が見える。
うしろすがたのしぐれてゆくか
山頭火を諳んじる。
しぐれてゆくのは利行か。
絵具箱を抱え、ふらふらと歩いてゆく。
地下鉄に消えたか、カフェーパウリスタに入ったか、六区の雑踏に酒を求めたか。
激しい胃痛に苦しみ、血を吐いても描くことをやめなかった長谷川利行。
生きることより描くことに重きを置いた利行の目に、こけしはひととき安らぎを与えたろうか。
(旧稿 2013年6月9日 記)