『ニコライとアレクサンドラ』を見て寝たら、やっぱり嫌な夢見た。
しばし「国家」と「個人」について考えた。
「国家」がなければ「個人」もないのか、「個人」がなければ「国家」は成り立たないのか。
ニコライ2世が退位して一個人になったとき、劇中でも描かれた「血の日曜日事件」で政府に虐殺された民衆と同じ立場になったわけで。
そんなふうに、世の中はいつもシーソーな状態なんだろうか。
今も世界中で、シーソーの順番を巡って個人は争い、国家と国家もまたシーソーに跨り、国家を跳ねのけると、その中の個人は吹き飛ばされる。
吹き飛ばされるのはいつも個人。
沖縄戦でもそう。
いま、中国に「タンピン族」なんてのが増えているのだとか。
躍進中国に疲れ、夢も希望も失い、欲張らない、頑張らない、競争しない、と、寝てばかりの若者たちが現れて、社会問題になりつつあるとか。
変な話だけど、「個人」はそれでなくっちゃ、と、少しほっとする。
そして、ラスプーチンはたいした奴だなあと。
ああいう「個人」がいたわけだ。
レーニンもまた然り。
あんな人嫌いだけど、エンバーミングの亡骸はいつか見てみたい(入口までは行った)。
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